■シーン1:ローマ帝国、まさかのブラック企業説
地中海を抱きしめるように広がる大地に、巨大な帝国があった。
ローマ――かつては秩序と栄光の象徴だったその国は、今や疲れ切った老舗企業のように、外見だけが立派だった。
帝都ローマの朝は早い。
太陽が昇る前から、石畳を叩く兵士の靴音、役人たちの怒号、荷車のきしむ音が混じり合い、街を覆う。
市民たちはそれぞれの持ち場へ向かい、今日も変わらぬ長い一日が始まるのだと悟る。
――そこには、かつての誇り高きローマの姿はなかった。
長時間労働が常態化した都
役所の一室。
巻物が山のように積まれ、書記たちは昼も夜も変わらぬ姿勢で羽根ペンを走らせている。
ため息がひとつ漏れれば、上司が顔を上げる。
「まだ終わらんのか? 次の戦争の準備が迫っているぞ」
戦争の準備も、道路の修繕も、新しい属州の管理も――
何もかもが“今日中に”だった。
残業という概念はなく、ただ「終わるまでやれ」が帝国の掟のように存在していた。
民族のざわつきは止まらない
北方からは、また一つ騒ぎが届いた。
ゲルマン族が国境近くで移動を始めたらしい。
帝都の人事官は、眉間を押さえて苦笑した。
「またか……。税が重いだの、土地が寒いだの、いつも文句ばかりだ」
たった一通の報告書が、帝国全体の不安を呼び込む。
遠い辺境の火種が、やがて帝都の屋根にも燃え移ることを、彼らは薄々知っていた。
皇帝の座をめぐる静かな狂気
帝宮の廊下は、いつもどこか張りつめていた。
皇帝が替わる――その言葉が囁かれた瞬間、宮廷の空気は血の匂いを帯びる。
誰もが“次の皇帝”を夢見る。
軍団に支えられた将軍、支持者を増やす政治家、野心を隠しきれない貴族。
「ローマを導くのは私だ」
「いや、私だ」
声が交わされるだけで、そこには剣の影がたゆたう。
ほんの少しの誤解、少しの挑発。
それだけで、新たな内乱が始まる。
宮廷の文官は、片手で震える巻物を持ちながら思う。
――また“会議は紛争により中断”と記録するのか、と。
崩れ落ちる巨塔
市民は疲弊していた。
税は重く、治安は悪く、パンは小さくなり、娯楽は減った。
ローマが誇っていた“豊かさ”は、いつの間にか帝国の背後へ消えていた。
「……もうだめだろうな」
誰がともなく漏らした呟きは、街角から街角へと渡り歩き、やがて現実となる。
西ローマ帝国は崩壊した。
その瞬間、帝都の空気は不思議なほど静かだった。
あれほど巨大だった帝国が倒れたというのに、
まるで長い長い勤務がようやく終わったかのような、静かな安堵が街を包んでいた。
そして、歴史の幕の向こうでひっそりと声が響く。
「ローマが倒れました。
次は誰が世界をまとめるのでしょう?
……誰も?
では、しばらく皆さん自由にどうぞ」
世界は突然、放課後の校庭のように広くなった。
秩序ある帝国の影が消え、混沌と自由が訪れる。
それは恐ろしくもあり、どこか解放的でもあった。
こうして、ヨーロッパは新たな時代へと歩み始める。
ローマが残した巨大な空白を前に――誰もが、次の物語を知らないままに。

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